2019.04.23
先日、新紙幣のデザインが発表されました。
一万円札の「渋沢栄一」
五千円札の「津田梅子」
千円札の「北里柴三郎」
いずれも令和6年に発行が開始されます。
因みに二千円札は今まで通りのデザインだそうです。
今から73年前、1円札として一人の偉人が選ばれました。
名前の読み方の「尊徳」は「そんとく」が定着しておりますが、
正確には「たかのり」と読むのが正しいそうです。
歴史の教科書ではあまり目立たない尊徳ですが、
日本人なら知らない人はいないと思います。
彼はどんな人物だったのでしょうか。
尊徳は百姓の長男として生まれました。
幼少期は広大な農地を家族で耕し、大きな屋敷に住む裕福な生活をしていたそうです。
しかし、幾度もの水害により土地を失い、両親を病で失い、
莫大な借金と幼い兄弟を抱えて生きることになってしまいました。
兄弟を親戚に預けながら、朝は薪割、夜はわらじ作りをして生計をたてていたそうです。
20歳になった頃、尊徳は実家に戻り、家業の復興に尽力しました。
家を修復し、田畑の一部を買い戻しました。
買い戻した田畑は人に貸すなどして収入を得ていました。
実家の復興を果たした彼は農耕経営を行なう一方で、小田原にて武家の奉公に努めました。
22歳になった尊徳に転機が訪れます。
小田原藩の最高職に就いていた服部十郎兵衛が、尊徳に服部家の建て直しを依頼してきました。
尊徳は服部家の財務を整理し、1,000両の負債を300両の資産に換えることに成功しました。
服部十郎兵衛はその際、300両を礼として尊徳に送りましたが、一銭も受け取らなかったそうです。
この評判がきっかけとなり、尊徳は小田原藩で名を挙げることになりました。
その後も藩内で多くの家々の再興に尽力した尊徳は、
38歳となる年に幕府に招集され、幕府の役人として働くようになりました。
今回1円札の尊徳について紹介致しましたが、
世間的・一般的にはやはり銅像のイメージが強いのかもしれません。
多くは小中学校に配置されており、薪を背負って本を読む姿が多く起用されています。
しかし近年では「ながら読書は危ない」という意見から
薪を足元に置き、直立状態で本を読む姿や、
座して本を読む姿で設置されるようになったそうです。
因みに「金次郎」という名前は「金治郎」からきており、
自筆文書の署名が「金治郎」であったことが由来だそうです。